[Song] John Lennon | Real Thing


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God / John Lennon

lennon


神とは自分の苦悩を計る概念にすぎない
もう一度言う
神とは
ひとが自分の苦悩を計るための概念にすぎないのだ
僕はマジックを信じない
僕は易占いを信じない
僕は聖書を信じない
僕はタロットを信じない
僕はヒットラーを信じない
僕はイエス・キリストを信じない
僕はケネディを信じない
僕は仏陀を信じない
僕はマントラを信じない
僕はギータを信じない
僕はヨガを信じない
僕は王と名の付くものたちを信じない
僕はエルビス・プレスリーを信じない
僕はボブ・ディランを信じない
僕はビートルズを信じない
僕はただ僕を信じる
ヨーコと僕を
そしてこれが現実
夢は終わった
今さら何を言えばいい?
夢は終わった
昨日
僕は夢織り人だった
だけど今僕は生まれ変わったんだ
僕はセイウチだった
けれど今、僕はジョンだ
だから親愛なる友たちよ
君らもまた自分の道を歩んでくれ
夢は終わったのだから

John Lennon/Plastic Ono Band
John Lennon/Plastic Ono Band
John Lennon



邦題は「ジョンの魂」(1970年リリース)。

ビートルズやジョンの曲について書かれた記事や書物は数多いですがbeatodyssey.comKennyさんが書かれた「Mother  ユング心理学とジョン・レノン」はジョンに対する深い洞察と愛情を感じることができる素晴らしい作品です。これは「レビュー」なんて形容とは一線を画する「作品」と呼ぶに相応しい読み応えで何度読んでも感じ入るところが多々あります。
『John Lennon / Plastic Ono Band』で著された
・・・「I was the walrus. But now I'm John(僕はセイウチだった。でも今はジョンなんだ)」という言葉には、ビートルズの一員という偽りの自分との決別、そしてヨーコと共に生まれ変わった新しい自分の幕開けを示していた。
しかし、その言葉には自信というものが全く感じられない。もし、ビートルズとの別離がヨーコによって提案されたものだとしたら、ジョンは喜んで従ったであろうし、歌声ももっと確信に溢れていたであろう。しかし、この曲におけるジョンの弱々しい歌声は、このビートルズとの別離がジョン一人の決定だったことを物語っている。だからこそ、この曲も言いようのない孤独感と悲壮感に満ちているのである。
という部分は「God」という曲の本質を簡潔に言い表しています。
アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」収録の「I am the walrus」という曲でも「walrus(セイウチ)」という単語をJohnは使っていて、これは「鏡の国のアリス」に出てくる「セイウチと大工」から引用したということを彼は後にインタビューでも語っているのですが、walrusとは何かという疑問には今尚多くのビートルズ・ファンが色々な考えを持っているのですね。私はwalrus=ビートルズであるというKennyさんの説「セイウチは誰なのか」にとても共感しましたので、そちらを踏襲させていただきます。
彼は、「自分の歌があまりカバーされない」ってしょげてたこともあったわ。ポールの曲の方がカバーされるって。でも、「それはあなたの曲がちょっと難しいから敬遠されてるのよ」って。
(オノ・ヨーコ)
Yahoo!ミュージック - 生誕65年ジョン・レノン
こちらは2005年の「ジョン・レノン・スーパー・ライブ」前に来日したヨーコさんがインタビューに答えた言葉。
これが1ヶ月ほど後に音楽シーンでトラブルの種になった様子。彼女の言葉が「ポールの曲を軽んじた発言」と受け取られたらしく、謝罪騒動にまでなったのですね。
でも、ごく普通に受け取る限りではポールを殊更に批判したという印象はありません。
ジョンにもそんなことを気にするかわいらしい一面があったのだ というエピソードを紹介してくれた言葉だと思うのですが、メディアはそう捉えないのですね。ヨーコとポールの溝の深さ、これは当人同士にしか解らない葛藤と経緯があると思うので、私はあまり触れずにおきたいことなのですがメディアは触れたくない部分を執拗に刺激しにかかるのです。
ポールも含めたビートルズのメンバーもヨーコも「遺された者」として痛みを抱えた人々なのに。両方のファンとしての眼で見ると、これは何だか哀しい。
対立を煽るかのような報道はかえって事実を見えづらくしてしまうので、誰にとっても不幸なことだと思えるのですが・・・。

非常に内省的で、まるでプライベートな告白のような「God」。
この曲が発表されたとき、ビートルズのファンはかなり衝撃を受けただろうなと思うのです。私はリアルタイムにビートルズを聴いたわけではないのでこれは想像でしかありませんが、かなりショッキングな歌だったろうなと。
「信じない」を羅列し、ビートルズとの訣別を歌い、自分は一人で、ヨーコと共に歩いていくから・・・と切々と歌っているのですから、ビートルズのファンであればあるほど聴く側も胸がさぞ痛かったでしょう。そのトラウマの残滓がまだメディアにもリスナーにも残っていて、ヨーコへの批判が思い出したように溢れ出すのかもしれません。
自分の「痛み」を曝け出すことは時に他人をも巻き込み、傷つけていく。その影響力が大きいということは取りも直さず彼に救われたひとも多いということなのですが、自分の痛みと他人の痛みを共有することはいつの時代でも不可能に近い。
それでも自分を表現することでしか生きていくことが出来ないアーティストの言葉を受け止めていこうとする人々が存在することが音楽の凄いところだし、そこに希望を持ちたいですね。

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(Just Like) Starting Over / John Lennon

John Lennon


共に生きる二人の人生はとても尊いものだよ
僕たちは一緒に成長したよね
二人の愛は今でもかけがえのないものだけど
そろそろ冒険してみないか
もっと新たな空へ飛び立つんだ

悠々自適の日々もそろそろ長すぎる
誰のせいでもないさ 時は矢のように過ぎていくんだから
今 こうして 改めてきみを見れば
2人はまた新たに 恋に落ちるような気がする
始まりが また始まりそうだ

毎日が順調な愛の生活だった
でももっと素敵な愛し合い方があるんじゃないか?
今こそ 翼を広げ はばたく時じゃないか
昨日までの生活を繰り返すんじゃなくて
そう 始まりが また始まりそうだ

一人きりで旅に出てみようよ
ずっとずっと遠くまでの旅を
また 僕たちらしい旅をしよう
最初の頃 そうだったようにさ
そう そうなのさ ダーリン

ダブル・ファンタジー 〜ミレニアム・エディション〜
ダブル・ファンタジー
ジョン・レノン&ヨーコ・オノ

この人、この時:歌手・加藤登紀子さん あしたを越えて
■夫の死−−私は「全部」になった
 夫は自分で最期の時を決めました。
 肝臓をがんに侵されたあとも「絶対に生きるぞ」と言い続けた。病状が悪化してからも、出会うべき人全員に会えるまで、病室で苦しくともがんばってくれた。
 でも最期の日、寝返りではずれた酸素マスクをつけてあげようとしたら、夫はそれを止め、大きな声で言ったのです。「もう、いいだろう」と。
 私は彼に何度もほおずりをしました。彼を抱きしめ、彼も私を抱き返してくれた。「あなた、よくがんばった。すてきだったわよ」とささやいたのを覚えています。
 息をしない、という意思表示をし、最期の時を自分で決め、それを受け入れた夫の姿に私は本当に圧倒されました。
 <間もなく取材が殺到し、登紀子さんはコメントを発表した。「2人の人生は今からまた別の形で始まる」と>
 葬儀の準備で病院から自宅に戻る車の中、とっさに出たのがあの言葉でした。今でもよく、あんな言葉を書いたな、と驚いてしまう。だってあの言葉はこれまで、何度も私をかき立ててくれた。「始まりなんだ、これは始まりなんだ」と。
 <始まったのは何だったのか>
 あきらかに違う時間が私の中に流れ始めました。もしもリンゴ半分ずつが夫婦なら、片方がいなくなったことで、私は「全部」になった。彼がいない欠落感より、ほかにはもういない、すべて自分の中にある、自分が丸ごと自分になった、という感覚が生まれました。
 それから私、生きていることが「途中」でなくなった。若いころの私は自分自身を「仮の姿」だと思っていた。どこか行くべき場所があって、その目的のために生きている「途中」だって。とりあえず生きているような感覚から逃れられなかった。
 でも夫の死を目の当たりにして、分かった。人はどこか遠いところ、目的を目指すために生きているんじゃない。生まれた時からもうすべてなんだって。すべての時が「途中」なんかではないんです。【聞き手・小国綾子】
毎日新聞 2004年11月30日 東京夕刊

加藤登紀子さんの「夫」の名前は、この本文中には出てきませんが 元・全学連委員長 藤本敏夫氏です。
藤本氏の主催していた「鴨川自然王国」は 「鴨川自然王国を未来へ〜歴史は未来からやってくる〜」を合言葉に「食」と「農」から平和な社会へのアプローチを続けています。
「藤本国王」が亡くなったいま、加藤登紀子さんもこちらの「王国」をサポートされているようです。
上記の記事を読んで、連想したのはジョン・レノンの「スターティング・オーバー」。
「2人の人生は今からまた別の形で始まる」咄嗟に出たという この言葉は感慨深いです。
伴侶を亡くすというのは、たぶん経験した人にしか分からない痛みなのでしょう。私にも、まだ想像できないです。

2年前の秋、義父が亡くなったのですが、喪中ハガキを作るときになって義母は形式的な喪中はがきの文章を拒みました。
「永眠しました・・・なんて書くのは嫌なの」
「“神様の御許に旅立ちました”と 書きたい」と・・・。
クリスチャンの夫婦でしたので、「永遠に眠る」のではなく 死は「旅立ち」への「出発点」なんだと感覚的に思ったのでしょう。
ターミナルケア という言葉は「終末期医療」と訳されますが、英語で「Terminal」と言えば「終末期」以外にも「終着駅」という意味があります。
実は「終着の」という意味はそれほど強くなく、主要な駅のことを指す場合が多いようで、どちらかといえばヨーロッパなどでよく見られる「起点になる駅」を指すようです。
そうしてみると「死」が「起点」であるという理解はごくごく自然なことだと思うのです。生の国から天国への「乗り換え駅」と思ってもいいのかもしれません。
「死」は終わりなわけじゃなく、後に遺った人々に色々な思いを残してくれる。
ジョンが今でも愛されているのは、歌や生き方を通じて「思い」をそれぞれに残してくれているからなんでしょうね。
Johnの曲はどれも好きですが、私はこの曲が特別好きです。イントロの鐘の音から涙が出そうになるので一人のときに聴かないといけません。


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